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大衆演劇の楽しみ方


芝居

60分~90分(時代劇を主とした芝居)
人情劇(涙)・喜劇(笑)・剣劇(任侠もの)などの時代劇が中心。



舞踊、歌謡ショー

30分~60分

演歌や流行の歌謡曲に合わせ、役者一人または複数人による踊りと歌のショーを公演する。



基本公演

芝居・舞踊歌謡ショーをセットにして公演しているところが多い。

大衆演劇専用の劇場を除いた公演場所では、飲食をしながらの観劇などによる公演の難しさが指摘されている。



外題(演目)替わり

一般観客を主とした公演場所では・・・
毎日の公演内容(外題)を替えて公演するところが多い傾向。


団体観客を主とした公演場所では・・・
2~3日間の期間で公演内容(外題)を替えて公演する傾向。


1つの外題でも、配役を変更して演じ、その役者の演じ方を楽しむことも大衆演劇を楽しむ一つの楽しみ方である。



特別公演

「座長襲名」や「記念公演」など、各劇団の座長が集って「座長大会」という催し事を行う特別な公演。



ファミリー劇団

昨今、家族がそろって同じ職場で同じ仕事につくことは珍しくなってきた。ところが大衆演劇界では、それこそ家族の強い絆が拠り所の公演活動をしているのである。

たとえば三十歳の中堅座長の率いる一座があるなら、妻は女優、子供達は子役、弟とその妻、あるいは妹とその夫、さらには両親も舞台に立つという具合なのだ。全国に約百十ある劇団の構成は、いずれも似たり寄ったり。現在の一座の平均座員は十三名だから、座長の親族が半数を占めることになる。

顔色ひとつで気心が通じあい、お互いに無理を言いあえる家族が軸なので、一座の運営はスムーズだ。そして一年三六五日、文字通り寝食をともにする座員達も、家族同然の存在といえる。舞台と楽屋の苦労を分かち合いながら、全員が強力な信頼関係をはぐくむ。こうした結果が約三時間半の、ハードな舞台を連日つくりあげる源になっている。



化粧

「塗ってこそ、飯のタネ」とか「どんな舞台でも、化粧の手抜きを覚えたら芸はのびない」と、幕内の教えがあるくらい、旅役者のメーキャップは濃い。たっぷりと塗りこみ、目許と鼻筋を特に強調するので、毒々しくさえうつる。その舞台顔と素顔とが見分けられるようになれば、ファンとして一人前だ。

大衆演劇のトレードマークともいえる厚化粧だが、一座特有の舞台顔がある。役者達は芸と同時に、それぞれの化粧の個性を競い合うが、座長にどことなく似てしまうのだ。どの役者も同じように見えるようでは、ファンとしては半人前。

化粧はとにかく早い。羽二重をぎゅっとしめて地塗りし、目、眉、鼻、唇などの順に顔を仕上げ、かつらを付けるまでが約七分。その気なら三分でも可能だという。

早飯、早風呂とならんで、早化粧も旅役者にとっては、芸の内なのだろう。



関東 関西 九州の芸風

過剰なくらい情感たっぷりに演じきるのが、旅役者の演技の特徴である。一座の芸風は、座長を軸にそれぞれが個性を競い合っているので、無論一様ではない。だが、大衆演劇の三大拠点である関東、関西、九州の芸風を比べると、随所に特色が見えてくる。

関東は小気味の良い台詞と洒脱な気風の良さを売り物にしているが、舞台全体が大味で活気に乏しい。どんな役柄でも無難にこなし、はんなりした“艶物”を得意とするのが関西だが、小器用すぎてダイナミックさに欠ける。大衆演劇のメッカといわれている九州は、壮烈な立回りの剣劇と、覇気に溢れる熱演型だが、それがかえって災いし、見ていて疲れをおぼえるのが欠点だ。

関係者の評価を総合すると、芸達者のランクは、九州、関西、関東の順になる。しかし九州の一座が、関東で大当たりするとは限らない。土地の水にあうかは、また別物なのだ。



ファン気質

大衆演劇のファンは、女性が八割を占める。近年若い女性も増えてはいるが、それでも中年以上の女性が圧倒的に多い。そのファンたちだが、ヘルスセンターに行く団体客を除外すると、次の二つに分類される。

一つは、公演にくる一座を満遍なく見ている常連客だ。小屋の周辺に住む人が多く、芝居通といえる。役者の巧拙を見る目が確かであり、ストーリーに即して主人公の心情を我が事のように受け止めて、泣き、笑い、拍手し、舞台を十分に堪能する。

常連が舞台そのもののファンであるのに対し、役者個人を応援するのが贔屓客である。劇団を全面的に援助する後援者と、ファンクラブの会員とに分けられるが、いずれにしろ熱狂的な贔屓となると、一座が巡業する先々まで追いかけ、一万円札を貼り付けたりする。

三吉演芸場は、芝居好きの常連客に支えられている常打ちの小屋だと、僕は見ている。



大衆演劇の歴史①

わが国の演劇がそうであるように、大衆演劇もまた、歌舞伎の強い影響を受けている。いや正確には亜流というべきで、一流劇場で上演される大歌舞伎に対して中歌舞伎ととも呼ばれていた。

そのルーツである歌舞伎の“血”を薄めつつ、今日の“ごった煮”の味わいの芸風を確立するまでの歴史を、二回に分けてふりかえってみたい。

明治中期、歌舞伎のパロディーである笑劇や新派物と演目をひろげていった大衆演劇に“節劇”が登場する。歌舞伎の浄瑠璃にかわって浪曲を口演する浪曲劇だ。当時の大衆が愛好した二つの芸能を同時に満足させたのだから、人気を博したのは当然といえる。この節劇は、敗戦直前まで各地でもてはやされた。浪曲にのせて芝居するうちに、おのずと演技は粘っこくなるらしく、旅役者特有の情感たっぷりな芝居は、節劇によって確立したといえる。



大衆演劇の歴史②

ベテラン座長が「大衆演劇のルーツ」という節劇と並行して、大衆の熱狂的な支持をとりつけたのは剣劇だった。

大正十一年、新国劇の沢田正二郎が確立した壮烈なリアリズムの殺陣は、爆発的な人気を呼び、これに大衆演劇が便乗したのである。明確な勧善懲悪のストーリーを好むファンには、派手な立回りで決着をつけるチャンバラ劇はうってつけで、呼称が“時代人情劇”とかわった現在でも、看板芸にかわりはない。

一方、芝居の幕間のサービスとして登場したのが舞踊ショウ。さらに役者自身が歌唱する歌謡ショウが加わる。前者は昭和十五年、後者は昭和二十三年頃から始めた一座があるというが、大衆演劇界にショウが定着したのは昭和三十年代後半である。

歌舞伎から派生した大衆演劇の歴史は、観客本位のサービス精神に徹した、つまりは大衆のための演劇の歴史でもあったわけだ。




ページの一部を、「旧 三吉演芸場HP」より引用
ページの一部を、「三吉演芸場だより」に特別寄稿された大衆演劇評論家、橋本正樹さんの文章より引用
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